共存するということ。
社食の燃えるゴミ入れに、缶詰の蓋が入れられていた。
ゴミ箱は上から投げ込む形式で、数々の白い紙ナプキンの上に投げ入れられていたそれは明らかに凶器以外のなにものでもなく、どうして燃えるゴミに入れることにしたのか、そこに至った心理がわからない。
どこに捨てればいいかわからなかったとしても、鋭利な缶詰の蓋を燃えるゴミとするものなのだろうか。
最近、雨の日の廊下は折り畳み傘の花があちこちで開き(広げて干している)、トイレに入れば、壁に鼻くそがたくさんこすりつけられていて、結構名前の知れた企業のはずなのに、なんでこんなにモラルが低いのかと哀しくなる日々。
とりあえずゴミ箱から取り出しておいたけれども、なんだかもやもやが残る、連休明けの初日でした。
老いていくということ
年を取るというのは、「どこかに行きたい」とか「何かを見たい」と思うエネルギーが失われることだから、若いうちに海外に行ったり、さまざまなものに触れておくようにと、そう冗談混じりに言っていた母も今年で69歳。
だんだんと先を見据えた終活がはじまった。
まずは築40年を越える、いまでは半分もふさがらなくなってしまったアパートを処分することになった。
いままで何も手伝ってこなかった自分には残されたところで管理も何もできるはずもなく、これ以上持っていてもプラスになることはもうなく、どちらかというと、メンテナンス費や解体費などを考えるとマイナスにしかならないのだから、仕方のないことなんだけれど。
何もしていない自分が哀しさを覚えるのは都合のいい話なんだとはわかっていても、40年以上も側にあったものがいざなくなるというのは、やはり喪失感を覚えてしまう。
もちろんその決断をした母の方が、何倍も感じていることだろう。
ここ最近は、十分に食材があるのに、必要以上に買い込んだあげく余らせてしまったり、買いだめした出来合いのものを先に食べなくてはならないのに、新たにご飯を炊いたうえにパスタを作ったりと、少しずつ、少しずつ、母のなかのメーターが壊れはじめてきている。
人は必ず老いるとはわかってはいるのに、いざそのときが見えはじめると、本当に本当につらい。
いまはただ、いつかくるそのときが、できるだけゆっくりと、できるだけひそやかにやってくればいいのにと願うばかり。
時間だけは誰にでも平等なものなのだとわかっていても。
なぜ、直感を信じないのか?
資格試験の話。
ひーひー言いながら、老体に鞭打って迎えた試験もやっと終了。
試験問題もその場で回収されたので、自己採点も(そもそも配点も分からない)何もないのだけれど、テキストを読み返してみたら、合ってると思っていたところがバッチリ間違えていたり、不安だったところが合っていたりと、合否の予想がまったくつかず……。
とはいえ、確実に間違えた数が10以上あるので、合格はかなり難しいと、もう諦めの境地ではあります。
それはいいとして、最後の最後に変えた答えが間違っていて、もともと書いていた答えが合ってたって、マンガみたいなオチはなんなのか?
試験のときの自分に伝えたい!
なぜ、直感を信じなかったのかと!!
頭をこねくりまわして導いた答えよりも、直感の方を土壇場で信じる人に、私はなりたい……。
大人になったって試験はあるのだ。
1月に入ってから、毎週末、降雪予報が出て勘弁してくれと、週末だけが楽しみの社会人としては、寒さに打ち震えながら週末の天気予報をチェックしている。
どうでもいいけど本当に寒い。
1月って毎年こんなだっけ? とすぐに忘れられるから、人は生きていけるのだろうか。
さて。
職場の昇進試験を受けるための資格取得のため、通信講座を修了し、なんとか合格点をもらえたので、本試験を受けることに。
(通常業務には直接関係がないが、職場としては有資格者がいればいるほど世間体がよくなるという資格)
けれどというか、やはりというか、課題を提出したのが11月だったので、もうキレイサッパリ忘れてしまっている。
不惑の年もすぎると、勉強なんてどうやっていたか覚えてやしないし、一夜漬けを記憶する脳のHDDも壊れているので、ひたすらテキストを読み込むしかないのだけれど、これがまったく頭に入ってこない。(ブログを更新してる場合でもない)
興味がないって恐ろしく、自分に正直な感情だ。
大人と言われて何十年も経ったのに、いまだに試験に翻弄されるなんて、こどもの頃は考えもしなかったのに、これが現実というもの。
確実でない昇進云々は置いといて、合格したら戻ってくる受験費用を返してもらうために、がんばるか。